仁義

挨拶はしなければならないものではない。政治においてやりたいこと、自らの野心に基づいて政治的に実現したいことがある者に挨拶したいと思う対象者が生じるだけである。政治においてやりたいこと、野心のない者は挨拶したい対象者がいるわけではない。他の者のことなど、彼あるいは彼女にとってどうでもいいことなのである。

政治においてやりたいこと、野心のない者は、全くではないものの、挨拶することがないため、挨拶しないことが習慣化する。世の中が治っていれば、野心を持つことが必要でない、あるいは、そもそも野心を持つ者がいないため、挨拶・礼儀もそれほど厳しいものではない。政治的に実現しなければならないことがある者、あるいは、今はともかく、将来的には政治的に取り組まなければならないことが生じる可能性を考えている者は、挨拶・礼儀に五月蠅いものである。

「大道廃れて仁義あり」と言えば、格好はいいが、挨拶・礼儀に厳しい者の中には世の中を心配している者もいるのである。仁義を守るとは、倫理や道徳の問題ではなく、社会の将来に対する心配である。

老子のいう「大道廃れて、安に仁義あり」とは結果を見ているだけで、社会の現実に対する始点(スタート)ではない。

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